2014年3月9日日曜日


         月刊「熊本郷土史譚通信」会報 第36

 特集 『朝鮮王朝実録』の中の菊池氏   

-菊池氏の「受図書人」をめぐる内紛-

文責 堤 克 彦(文学博士)


、菊池兼朝・持朝・為邦の動向

元中九(1392)年の「南北朝合一」後になると、菊池氏は「南朝一辺倒」という「大義名分」の根拠をなくしました。しかし菊池兼朝は父武朝の遺志を引き継ぎ、あくまでも「南朝方」としての「大義名分」を掲げ、「北朝方」の室町幕府との対峙姿勢を取り続けました。
第十八代兼朝は、応永二十六(1419)年六月の「応永の外寇」では、倭寇の根拠と見た朝鮮王朝の対馬襲撃に「九州探題」と共に戦いましたが、それ以外では幕府と対立し続けました。同三十(1423)年二月の「菊池十八外城」改制などは、「南北朝合一」後も約30年間、依然として幕府対策を強化していた証です。(本「つうしん」第18号「菊池十八外城の決定時期」参照)
ところが、第十九代持朝は父兼朝と違って、親幕的な態度を取り、幕府と一緒になって大友氏を攻めるなど、むしろ幕府側について有利に支配領域を拡大・確保することを最優先にしました。父兼朝・子持朝の不和は、この両者の幕府対応の相違にその発端があったと思われます。
第二十代為邦は、父持朝の支配下にあった肥後国の高瀬・託麻・宇土・八代や肥前国を弟たちに治めさせ、自らは享徳元(1452)年には「江月山玉祥寺」(菩提寺)を建立し、また37歳の時、即ち文正元(1466)年には、第二十一代重朝に家督相続して出家、同年「神龍山碧巌寺」を建立、そこを拠点に学問・文教に尽力しました。
このような菊池氏の動向の中で、第十八代兼朝は応永二十四(1417)年に「朝鮮王朝と交易」を開始し、第十九代持朝も永享十一(1439)年に「朝鮮王朝と交易」を継続し、さらに第二十代為邦は長禄二(1458)年から「朝鮮王朝と交易」しています。そして為邦は文明二(1470)年には「受図書人」、即ち朝鮮貿易で年一・二船を派遣できる資格を入手しています。その後さらに第二十一代重朝にも受け継がれ、文明六(1474)年から「朝鮮王朝と交易」をしています。
以上のように、歴代菊池氏のうち、兼朝が始めた「朝鮮貿易」は、持朝・為邦さらに重朝と四代にわたって継続されています。今回は、その経緯と内容について、『朝鮮王朝実録』を中心に申高霊(申叔舟)の報告書『海東諸国記』の記述の一部を紹介しながら見ていくことにします。

二、『朝鮮王朝実録』の中の菊池氏
『朝鮮王朝実録』や『海東諸国記』などは、韓国側の第一級の歴史資料や文献ですが、その中に菊池氏の動向がかなり詳しく出てきています。その概要を紹介する前に、『高麗史節要』の「前期倭寇」の記述の中に登場する「倭寇の幼将」とそれに関する私のエピソードを紹介しておきたいと思います。なお「前期倭寇」に関しては、本「くまもと郷土史譚つうしん」第30号(「菊池第十五代武光の事績〔3〕-「征西将軍府」開設と明の「倭寇禁圧」要請-)を参照ください。

1、『高麗史節要』の倭寇の幼将
過日この号の執筆もあたって、田中健夫著『増補・倭寇と勘合貿易』(ちくま学芸文庫 2012年)を読んでいました。その時『高麗史節要』の中に、「朝鮮人を賞嘆させた倭寇の勇将の神話」に関するつぎのような記述がありました。
「一賊将があった。歳はわずかに十五・六歳で、容貌は端麗で驍勇無比(ぎょうゆうむひ、無比の剛勇)である。白馬に乗って槍をふるって駈けまわり、向かうところうち伏せ、あえて当たるものがない。わが朝鮮軍は阿只抜都(アキバツ)と称し、争ってこれを避けた。阿只抜都は朝鮮語で幼い将軍というような意味である。このような勇将も李氏朝鮮の太祖となった李成桂(りせいけい)のために、とうとう兜を射ぬかれて殺されてしまった」(2526頁)
田中氏はこの時期の倭寇の特色として、①倭寇の足跡が竜州(義州付近)に達していたこと、②全羅・慶尚の奥地がしきりに侵されたこと。倭寇のなかには大規模な騎馬隊が存在したこと、③朝鮮の日本海側斜面すなわち江陵道を北上する倭寇があったことなどを列記しています。
さてこのことに関する私のエピソードは、5・6年前の菊池市立図書室(中央公民館三階当時)でのことでした。司書の人がやってきて、「韓国から菊池氏について調べにこられています。よくわからないので会ってください」と言われ、早速会いに行きました。その人の名刺には「韓国放送通信大学校・日本学科教授 李領(イヨン)」とありました。
李氏は上手な日本語で、倭寇の少年勇将の話をされ、この「十五・六歳の幼将は菊池氏ではないかと思っている。何か資料はないかと思って調べに来た」とのことでした。まったくの初耳の話で、何の力になれませんでした。
その後「前期倭寇」について、武田幸男編訳『高麗史日本伝』上・下(岩波文庫 2,005年)等々随分調べましたが、該当する記述を見つけ出せず、とても悔しい思いをしていました。ところがこの『増補・倭寇と勘合貿易』を読んで、李領氏の話が『高麗史節要』にあったことがわかりました。
エピソードはまだ続きます。2011年に菊池市の「日韓交流」で金秀仁(キム・スイン)氏(当時同大学在学中、李領氏の教え子)が来菊、表敬訪問で市長に手渡された依頼の名刺が、何と私がもらっていたのと同じ李氏のもの、その偶然というか奇遇さにお互いにびっくりしたという話です。

2、『朝鮮王朝実録』の菊池殿
『朝鮮王朝実録』の中には菊池氏関係の記事が34回出ています。表①「『朝鮮王朝実録』の菊池氏」はそれらに基づいて作成したものです。その期間は1417(応永二十四)年から1504(文亀四)年までの88年間、ほぼ一世紀にわたっています。
菊池氏の朝鮮貿易は、「応仁の乱」(14671477)の50年前に開始され、乱後約30年、即ち戦国時代の最中まで続いたことになります。日本国内では「群雄割拠」の戦乱期でした。一方、朝鮮王朝では、三代太宗・四代世宗・五代文宗・六代端宗・七代世祖・八代睿宗・九代成宗そして十代燕山宗の期間で、謂わば朝鮮王朝の確立・安定期でした。
このように両国は真逆の国内事情でした。朝鮮王朝が日本の「朝鮮貿易」の要請を受け入れた背景はそれなりに理解できますが、「群雄割拠」の渦中にあった戦国諸氏が争うように「朝鮮貿易」に出かけて行った理由を解明できていません。これからの研究課題にしたいと思っています。
さて菊池氏の初見は、1417(応永二十四)年に「菊池殿」の呼称で登場、その年代から菊池氏第十八代兼朝に比定できます。また1439(永亨十一)年の「菊池殿」は十九代持朝で、「且つ曾ての所の如く通信して、親来の者、誠心帰順に及び、井大郎の如き者、又大内殿・菊池殿の如し」(原漢文)と記されています。この文言からすると、菊池氏はかなり以前から、それなりに頻繁に「遣使」していた様子が窺えます。しかもいずれも対馬島主宗貞盛の「文引」(渡航許可証)なしでの「遣使」でした。

表①『朝鮮王朝実録』の菊池氏

菊池氏
1417
「菊池殿」(18代兼朝)
1439
「菊池殿」(19代持朝、
1446年死去(38歳)
1450
為房(20代爲邦弟、詫磨大膳太夫)「受図書人」取得
1455
為房「歳一船」
1458
20代為邦(初見)
1460
46月為邦
1462
為邦
1463
為邦
1465
為邦、1466年重朝に家督相続
1468
為邦、「受図書人」取得、死去40歳)
1469
為邦
1470
為邦
1471
為邦
1473
為幸(為邦の改名)
1474
6月為幸、11月為邦、821代重朝
1476
2月為邦、7月重朝
1477
為幸
1478
為幸
1479
4月為邦、6月為幸
1481
為幸
1484
112月為幸、12月重朝
1485
11月為幸、11月重朝
1486
為幸
1488
為幸、通説為邦死去59歳)
1490
3月為幸、110月重朝
1491
為幸
1493
為幸、重朝死去49歳)
1495
重朝
1502
9月為幸、9月重朝
1504
重朝
               3、「肥筑二州太守藤原朝臣菊池為邦」
第二十代為邦の名は、1458(長禄二)年の「肥筑二州太守藤原朝臣菊池為邦」が初見で、以後1460(寛正元)年四・六月、1462年、1463年、1465年、1469(文明元)年までの10回は、いずれも「使いを遣わし来りて土物(土産)を献ず」の記事が続き、その後は1470(文明二)年、1471年、1474年、1476年、1479(文明十一)年と5回、通算15回の「遣使」をしています。
『朝鮮王朝実録』(1470年9月1日)の「菊池為邦、戊子(成化四年 1468)年、我が国の図書を受け、而して今仍て私の図書を用いる」の記事から、為邦は1468年の「遣使」した時、すでに「受図書人」の資格を取得していたことになります。
『海東諸国紀』の「庚寅(1470)年、又遣使来りて、図書を受く」とは違っていますが、この年の「遣使」では「受図書人」の資格を利用したものと思われます。

4、「日本国関西路肥後州守菊池藤原為幸」
また『朝鮮王朝実録』(1473年5月6日)の記事に、「日本国関西路肥後州守菊池藤原為幸」の書契として、「臣、前に“為邦”と號す。今軍功を以て、扶桑(日本)殿下賜うに“為幸”と名づく。庶幾(願わくば)“為幸”の両字の図書を賜ひて、以て毎歳の入貢の信符と為さん」とあります。即ち菊池為邦は「為幸」と改名して、さらに1473(文明五)年から1502(文亀二)年までの間に、15回も「遣使」し続けたことになります。

5、「為邦=為幸」説と「為邦≠為幸」説
前の記事の通りであれば、為邦と「為幸」は同一人物ですが、為邦の「遣使」の回数は、最初の1450(宝徳二)年から1502(文亀二)年までの53年間、都合28回となってしまい、一代の「遣使」の回数も期間も現実的ではありません。
通説では、為邦は長享二(1488)年に59歳で死去。『朝鮮王朝実録』(14741110日)によれば、第二十一代重朝は父為邦について「戊子(1468)二月二十八日、父病死す」と報告しています。為邦は20年前に40歳で死去したことになります。
また表①で為邦が最後に登場するのは文明十一(1479)年で、52歳の時にあたります。前の『朝鮮王朝実録』の記述通りであれば、死後すでに10年以上経っています。その為邦が「為幸」と同一人物であれば、文亀二(1502)年まで、少なくとも75歳まで生きていたことになり、当時の歴代菊池氏の惣領の死亡年からして、あまりにも長命すぎて、疑問が残ってしまいます。「為邦≠為幸」説については割愛しています。

6、菊池重朝の「遣使」
また『朝鮮王朝実録』には、1476(文明八)年「自今以後、菊池毎歳両船を遣わす者は重朝也」と記されています。為邦嫡子の二十一代重朝も「遣使」を始めていいます。別の記事では、その初見は1474(文明六)年で、1504(文亀四)年まで都合9回の遣船となっています。
為邦・重朝父子は別々に「遣使」し、両者が重複するのは1474年と1476年の2回、その後「為幸」との重複は、1469年、1484年、1485年、1490年、1502年の5回です。通説では、その重朝は明応二(1493)年49歳で死んでいますので、表①の重朝の1502(文亀二)年と1504(文亀四)年の「遣使」は、あるいは第二十二代能運(武運)だったかもしれません。

2014年2月9日日曜日

熊本郷土史譚研究所の堤です。

今回は、
月刊「熊本郷土史譚通信」会報 第35

 特集 懐良・良成両親王後の「奥八女」

-「阿蘇修験」北峰ルートと「星野・矢部金山」-

その導入部分を紹介します。

前号で、懐良親王と菊池武光勢は文中元(応安五〔1372〕)年八月に大宰府を撤去、高良山に後退したこと、武光はそこで翌二(1373)年十一月に死去、また文中三(1374)年には、懐良親王勢はさらに高良山から撤退、耳納山の石垣城に陣を移したこと、さらに幕府方の一斉攻撃を受け、懐良親王勢は一挙に耳納山を越え、「星野谷」に退去を余儀なくされたことなどについて見てきました。
しかし懐良親王勢は何故「星野谷」に逃げ込んだのでしょうか。幕府方が地形的に攻め難く、「星野谷」への追撃も容易でなかったからとされますが、それ以外の理由は考えられないのでしょうか。
その一つは「星野氏」の存在です。『星野家傳記』によると、星野初代胤実は後堀川天皇の嘉禄二(1226)年には「星野谷」を拝領・下向、その時「熊野権現」(無漏山〔室山〕泡来院岩念寺)を建立しています。また『星野家譜』には、懐良親王の九州下向の相談が星野四代實秀を中心になされ、延元三(1338)年の暮れに、菊池第十三代武重と相談したとされています。ただ信憑性には問題があります。
そうすると、懐良親王が天授元(1375)年に良成親王に「征西将軍職」を譲った後、天授三(1377)年二月「高良山玉垂宮下宮社」に奉願、その四月には八女市星野村小野の「空谷山(後に玉水山)大円寺」に入在、信仰生活に入り、生涯で一番平穏な日々を過ごした遠因と必然性が考えられます。
戦前、「奥八女」の星野・矢部両村は「九州の吉野朝」と称され、八女郡民の誇りでした。確かに、「奥八女」には懐良親王が余生を送った星野村、「後征西将軍宮」良成親王や五條氏、南朝方武将菊池・阿蘇両氏たちが、室町幕府の足利将軍義満方に抵抗を続けた矢部村であり、両村には最も信憑性の高い懐良・良成両親王の墓所があります。
この「奥八女」は、菊池氏や阿蘇氏とも非常に深い関係がありました。キー・ワードは「修験道」です。「修験」(山伏)は「山師」と称され、「鉱山」や「鉱脈」の発見に特別な知識を持っていました。これまで殆ど考察されていませんが、今回は私の独自な






















図1 阿蘇修験の「北峰ルート」
考察と見解を紹介したいと思います。
右の図は阿蘇修験の北峰入りのルートです。なぜ国境を越えて、筑後の「奥八女」に入ったのでしょうか。その地域は懐良親王・良成親王を支えた五條家の支配領域でした。



熊本郷土史譚研究所では、毎月15日に「くまもと郷土史譚つうしん」(一部300円、年間購読料3500円)を発行しています。

興味のある方は、下記までご連絡ください。

〒861-1323

熊本県菊池市西寺1700-7

電話/FAX 0968-25-3120

熊本郷土史譚研究所 代表 堤 克彦




2014年1月12日日曜日

熊本郷土史譚研究所の堤です。

今回は、
月刊「熊本郷土史譚通信」会報 第34
  特集 懐良親王の墓所考 
文責 堤 克 彦(文学博士)
新年到来!明けましておめでとうございます。今年はどんな年になるのでしょうか。みなさんにとってよい年でありますように。私も心機一転の年にしたいと思っています。『くまもと郷土史譚つうしん』も4年目(第4期)に入ります。引き続きの御購読をお願いします。

その導入部分を紹介します。
前号まで6回にわたって、「菊池第十五代武光の事績」について、入手可能な新史料を自分なりに駆使ながら考察してみました。菊池歴代の「南朝一辺倒」の歴史は、第十五代武光の時に最盛期に達し、その後は辛うじて第十六代武政・第十七代武朝までは続きました。特に元中九(1392)年閏十月の「南北朝合一」以降になると、第十八代兼朝と第十九代持朝では父子間に不和が生じるなど、他の地方武士団と同様、菊池氏は一族の内紛に明け暮れるようになります。今回は第十六代武政・第十七代武朝と征西将軍宮懐良親王・後征西将軍宮良成親王について見て行きたいと思います。まず第十六代武政・第十七代武朝に関する略年表を掲載し、その動向を見ておきましょう。

16

(たけ) (まさ)
以下守山城居城
◆武光の嫡子次郎。興国三(1342)年生まれ。妻は恵良惟澄の女。父武光の補佐役的存在。正平二十二(1367)年家督相続。肥後守。◆守山城の築城(菊之池城→守山城)。条坊制により隈府町並みの基礎を作す。◆父武光の死後も幕府(北朝)方と交戦。文中二・応安六(1373)年、従兄弟の阿蘇惟武(惟澄の二男)に救援依頼。文中三・応安七(1374)年五月、高良山で死去(33歳)

17
(たけ) (とも)
菊池氏の「南朝一辺倒」の終焉。一族内紛の始まり
◆武政の嫡子(母は宗盛義の女か)。加賀(賀々)丸。肥後守。右京大夫。◆父武政の急死、12歳で家督相続。◆懐良親王の引退。(八女郡星野村、矢部村説あり)良成親王とともに戦う。◆天授元・永和元(1378)年「水島の戦い」(14歳)で今川貞世(了俊)らに勝利。天授四・永和四(1378)年、北宮阿蘇神社の建立。同年「詫磨原の戦い」(16歳)で勝利。弘和三(1383)年懐良親王死去。◆武朝・良成親王、本拠地菊池を退去に家臣団の不信。同四(1384)年「武朝申状」を南朝に呈す。◆元中九(1392)年閏十月の「南北朝合一」後も幕府に抵抗(良成親王、矢部郷御杣御所より令旨)。良成親王、応永二(1395)年三月死去。武朝、応永九(1402)年死去(41歳)

弘和三(永徳三、1383)年三月、懐良親王は八女市星野村(矢部村・黒木御所説あり)で死去しています。ところが懐良親王の墓所は数カ所あり、終焉の地を簡単に決めることはできません。果していくつの懐良親王の墓所伝承の比定地はあるのでしょうか。
『星野村史』通史編の第三章「征西将軍宮懐良親王と星野村」の執筆担当者佐々木四十臣氏は、×錆矢堂(大分県中津市)・×普門寺跡(大分県日田市)・×元米良御所(宮崎県西米良村)・△将軍廟(熊本県御船町、但し良成親王か)・○千光寺(福岡県久留米市、但し星野村大円寺からの墓石・骨の移送か)・△悟真寺(熊本県八代市)・◎大明神山(福岡県星野村)の7カ所をあげています。その可能性の有無とその判断の結果は、前の比定地に◎・○・△・×で示しました。
これらの中には懐良親王や良成親王に最も深い関係のあった菊池が含まれていません。菊池には両親王の墓所らしきものはなく、守山城近くの「内裏尾」にあった「将軍宮御座館」跡には、懐良・良成両親王を祭る「雲上宮」が建立されているだけです。上記の複数ある懐良親王の墓所の中から、つぎの2ヶ所について、佐々木氏の参考資料と見解を参考に、私なりの考察してみたいと思います。

  
①八代市妙見町谷「悟真寺」懐良親王墓


②八女市星野村小野「大円寺」裏の大明神山