月刊「熊本郷土史譚通信」会報 第36号
特集 『朝鮮王朝実録』の中の菊池氏
-菊池氏の「受図書人」をめぐる内紛-
-菊池氏の「受図書人」をめぐる内紛-
文責 堤 克 彦(文学博士)
一、菊池兼朝・持朝・為邦の動向
元中九(1392)年の「南北朝合一」後になると、菊池氏は「南朝一辺倒」という「大義名分」の根拠をなくしました。しかし菊池兼朝は父武朝の遺志を引き継ぎ、あくまでも「南朝方」としての「大義名分」を掲げ、「北朝方」の室町幕府との対峙姿勢を取り続けました。
第十八代兼朝は、応永二十六(1419)年六月の「応永の外寇」では、倭寇の根拠と見た朝鮮王朝の対馬襲撃に「九州探題」と共に戦いましたが、それ以外では幕府と対立し続けました。同三十(1423)年二月の「菊池十八外城」改制などは、「南北朝合一」後も約30年間、依然として幕府対策を強化していた証です。(本「つうしん」第18号「菊池十八外城の決定時期」参照)
ところが、第十九代持朝は父兼朝と違って、親幕的な態度を取り、幕府と一緒になって大友氏を攻めるなど、むしろ幕府側について有利に支配領域を拡大・確保することを最優先にしました。父兼朝・子持朝の不和は、この両者の幕府対応の相違にその発端があったと思われます。
第二十代為邦は、父持朝の支配下にあった肥後国の高瀬・託麻・宇土・八代や肥前国を弟たちに治めさせ、自らは享徳元(1452)年には「江月山玉祥寺」(菩提寺)を建立し、また37歳の時、即ち文正元(1466)年には、第二十一代重朝に家督相続して出家、同年「神龍山碧巌寺」を建立、そこを拠点に学問・文教に尽力しました。
このような菊池氏の動向の中で、第十八代兼朝は応永二十四(1417)年に「朝鮮王朝と交易」を開始し、第十九代持朝も永享十一(1439)年に「朝鮮王朝と交易」を継続し、さらに第二十代為邦は長禄二(1458)年から「朝鮮王朝と交易」しています。そして為邦は文明二(1470)年には「受図書人」、即ち朝鮮貿易で年一・二船を派遣できる資格を入手しています。その後さらに第二十一代重朝にも受け継がれ、文明六(1474)年から「朝鮮王朝と交易」をしています。
以上のように、歴代菊池氏のうち、兼朝が始めた「朝鮮貿易」は、持朝・為邦さらに重朝と四代にわたって継続されています。今回は、その経緯と内容について、『朝鮮王朝実録』を中心に申高霊(申叔舟)の報告書『海東諸国記』の記述の一部を紹介しながら見ていくことにします。
二、『朝鮮王朝実録』の中の菊池氏
『朝鮮王朝実録』や『海東諸国記』などは、韓国側の第一級の歴史資料や文献ですが、その中に菊池氏の動向がかなり詳しく出てきています。その概要を紹介する前に、『高麗史節要』の「前期倭寇」の記述の中に登場する「倭寇の幼将」とそれに関する私のエピソードを紹介しておきたいと思います。なお「前期倭寇」に関しては、本「くまもと郷土史譚つうしん」第30号(「菊池第十五代武光の事績〔3〕-「征西将軍府」開設と明の「倭寇禁圧」要請-)を参照ください。
1、『高麗史節要』の倭寇の幼将
過日この号の執筆もあたって、田中健夫著『増補・倭寇と勘合貿易』(ちくま学芸文庫 2012年)を読んでいました。その時『高麗史節要』の中に、「朝鮮人を賞嘆させた倭寇の勇将の神話」に関するつぎのような記述がありました。
「一賊将があった。歳はわずかに十五・六歳で、容貌は端麗で驍勇無比(ぎょうゆうむひ、無比の剛勇)である。白馬に乗って槍をふるって駈けまわり、向かうところうち伏せ、あえて当たるものがない。わが朝鮮軍は阿只抜都(アキバツ)と称し、争ってこれを避けた。阿只抜都は朝鮮語で幼い将軍というような意味である。このような勇将も李氏朝鮮の太祖となった李成桂(りせいけい)のために、とうとう兜を射ぬかれて殺されてしまった」(25~26頁)
田中氏はこの時期の倭寇の特色として、①倭寇の足跡が竜州(義州付近)に達していたこと、②全羅・慶尚の奥地がしきりに侵されたこと。倭寇のなかには大規模な騎馬隊が存在したこと、③朝鮮の日本海側斜面すなわち江陵道を北上する倭寇があったことなどを列記しています。
さてこのことに関する私のエピソードは、5・6年前の菊池市立図書室(中央公民館三階当時)でのことでした。司書の人がやってきて、「韓国から菊池氏について調べにこられています。よくわからないので会ってください」と言われ、早速会いに行きました。その人の名刺には「韓国放送通信大学校・日本学科教授 李領(イヨン)」とありました。
李氏は上手な日本語で、倭寇の少年勇将の話をされ、この「十五・六歳の幼将は菊池氏ではないかと思っている。何か資料はないかと思って調べに来た」とのことでした。まったくの初耳の話で、何の力になれませんでした。
その後「前期倭寇」について、武田幸男編訳『高麗史日本伝』上・下(岩波文庫 2,005年)等々随分調べましたが、該当する記述を見つけ出せず、とても悔しい思いをしていました。ところがこの『増補・倭寇と勘合貿易』を読んで、李領氏の話が『高麗史節要』にあったことがわかりました。
エピソードはまだ続きます。2011年に菊池市の「日韓交流」で金秀仁(キム・スイン)氏(当時同大学在学中、李領氏の教え子)が来菊、表敬訪問で市長に手渡された依頼の名刺が、何と私がもらっていたのと同じ李氏のもの、その偶然というか奇遇さにお互いにびっくりしたという話です。
2、『朝鮮王朝実録』の菊池殿
『朝鮮王朝実録』の中には菊池氏関係の記事が34回出ています。表①「『朝鮮王朝実録』の菊池氏」はそれらに基づいて作成したものです。その期間は1417(応永二十四)年から1504(文亀四)年までの88年間、ほぼ一世紀にわたっています。
菊池氏の朝鮮貿易は、「応仁の乱」(1467~1477)の50年前に開始され、乱後約30年、即ち戦国時代の最中まで続いたことになります。日本国内では「群雄割拠」の戦乱期でした。一方、朝鮮王朝では、三代太宗・四代世宗・五代文宗・六代端宗・七代世祖・八代睿宗・九代成宗そして十代燕山宗の期間で、謂わば朝鮮王朝の確立・安定期でした。
このように両国は真逆の国内事情でした。朝鮮王朝が日本の「朝鮮貿易」の要請を受け入れた背景はそれなりに理解できますが、「群雄割拠」の渦中にあった戦国諸氏が争うように「朝鮮貿易」に出かけて行った理由を解明できていません。これからの研究課題にしたいと思っています。
さて菊池氏の初見は、1417(応永二十四)年に「菊池殿」の呼称で登場、その年代から菊池氏第十八代兼朝に比定できます。また1439(永亨十一)年の「菊池殿」は十九代持朝で、「且つ曾ての所の如く通信して、親来の者、誠心帰順に及び、井大郎の如き者、又大内殿・菊池殿の如し」(原漢文)と記されています。この文言からすると、菊池氏はかなり以前から、それなりに頻繁に「遣使」していた様子が窺えます。しかもいずれも対馬島主宗貞盛の「文引」(渡航許可証)なしでの「遣使」でした。
表①『朝鮮王朝実録』の菊池氏
年
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菊池氏
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1417
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「菊池殿」(18代兼朝)
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1439
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「菊池殿」(19代持朝、
1446年死去(38歳)
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1450
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為房(20代爲邦弟、詫磨大膳太夫)「受図書人」取得
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1455
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為房「歳一船」
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1458
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20代為邦(初見)
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1460
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4・6月為邦
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1462
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為邦
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1463
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為邦
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1465
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為邦、1466年重朝に家督相続
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1468
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為邦、「受図書人」取得、死去(40歳)
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1469
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為邦
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1470
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為邦
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1471
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為邦
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1473
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為幸(為邦の改名)
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1474
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6月為幸、11月為邦、8月21代重朝
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1476
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2月為邦、7月重朝
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1477
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為幸
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1478
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為幸
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1479
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4月為邦、6月為幸
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1481
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為幸
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1484
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1・12月為幸、12月重朝
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1485
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11月為幸、11月重朝
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1486
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為幸
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1488
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為幸、通説為邦死去(59歳)
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1490
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3月為幸、1・10月重朝
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1491
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為幸
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1493
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為幸、重朝死去(49歳)
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1495
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重朝
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1502
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9月為幸、9月重朝
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1504
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重朝
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3、「肥筑二州太守藤原朝臣菊池為邦」
第二十代為邦の名は、1458(長禄二)年の「肥筑二州太守藤原朝臣菊池為邦」が初見で、以後1460(寛正元)年四・六月、1462年、1463年、1465年、1469(文明元)年までの10回は、いずれも「使いを遣わし来りて土物(土産)を献ず」の記事が続き、その後は1470(文明二)年、1471年、1474年、1476年、1479(文明十一)年と5回、通算15回の「遣使」をしています。
『朝鮮王朝実録』(1470年9月1日)の「菊池為邦、戊子(成化四年 1468)年、我が国の図書を受け、而して今仍て私の図書を用いる」の記事から、為邦は1468年の「遣使」した時、すでに「受図書人」の資格を取得していたことになります。
『海東諸国紀』の「庚寅(1470)年、又遣使来りて、図書を受く」とは違っていますが、この年の「遣使」では「受図書人」の資格を利用したものと思われます。
4、「日本国関西路肥後州守菊池藤原為幸」
また『朝鮮王朝実録』(1473年5月6日)の記事に、「日本国関西路肥後州守菊池藤原為幸」の書契として、「臣、前に“為邦”と號す。今軍功を以て、扶桑(日本)殿下賜うに“為幸”と名づく。庶幾(願わくば)“為幸”の両字の図書を賜ひて、以て毎歳の入貢の信符と為さん」とあります。即ち菊池為邦は「為幸」と改名して、さらに1473(文明五)年から1502(文亀二)年までの間に、15回も「遣使」し続けたことになります。
5、「為邦=為幸」説と 「為邦≠為幸」説
前の記事の通りであれば、為邦と「為幸」は同一人物ですが、為邦の「遣使」の回数は、最初の1450(宝徳二)年から1502(文亀二)年までの53年間、都合28回となってしまい、一代の「遣使」の回数も期間も現実的ではありません。
通説では、為邦は長享二(1488)年に59歳で死去。『朝鮮王朝実録』(1474年11月10日)によれば、第二十一代重朝は父為邦について「戊子(1468)二月二十八日、父病死す」と報告しています。為邦は20年前に40歳で死去したことになります。
また表①で為邦が最後に登場するのは文明十一(1479)年で、52歳の時にあたります。前の『朝鮮王朝実録』の記述通りであれば、死後すでに10年以上経っています。その為邦が「為幸」と同一人物であれば、文亀二(1502)年まで、少なくとも75歳まで生きていたことになり、当時の歴代菊池氏の惣領の死亡年からして、あまりにも長命すぎて、疑問が残ってしまいます。 「為邦≠為幸」説については割愛しています。
6、菊池重朝の「遣使」
また『朝鮮王朝実録』には、1476(文明八)年「自今以後、菊池毎歳両船を遣わす者は重朝也」と記されています。為邦嫡子の二十一代重朝も「遣使」を始めていいます。別の記事では、その初見は1474(文明六)年で、1504(文亀四)年まで都合9回の遣船となっています。
為邦・重朝父子は別々に「遣使」し、両者が重複するのは1474年と1476年の2回、その後「為幸」との重複は、1469年、1484年、1485年、1490年、1502年の5回です。通説では、その重朝は明応二(1493)年49歳で死んでいますので、表①の重朝の1502(文亀二)年と1504(文亀四)年の「遣使」は、あるいは第二十二代能運(武運)だったかもしれません。
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