2014年2月9日日曜日

熊本郷土史譚研究所の堤です。

今回は、
月刊「熊本郷土史譚通信」会報 第35

 特集 懐良・良成両親王後の「奥八女」

-「阿蘇修験」北峰ルートと「星野・矢部金山」-

その導入部分を紹介します。

前号で、懐良親王と菊池武光勢は文中元(応安五〔1372〕)年八月に大宰府を撤去、高良山に後退したこと、武光はそこで翌二(1373)年十一月に死去、また文中三(1374)年には、懐良親王勢はさらに高良山から撤退、耳納山の石垣城に陣を移したこと、さらに幕府方の一斉攻撃を受け、懐良親王勢は一挙に耳納山を越え、「星野谷」に退去を余儀なくされたことなどについて見てきました。
しかし懐良親王勢は何故「星野谷」に逃げ込んだのでしょうか。幕府方が地形的に攻め難く、「星野谷」への追撃も容易でなかったからとされますが、それ以外の理由は考えられないのでしょうか。
その一つは「星野氏」の存在です。『星野家傳記』によると、星野初代胤実は後堀川天皇の嘉禄二(1226)年には「星野谷」を拝領・下向、その時「熊野権現」(無漏山〔室山〕泡来院岩念寺)を建立しています。また『星野家譜』には、懐良親王の九州下向の相談が星野四代實秀を中心になされ、延元三(1338)年の暮れに、菊池第十三代武重と相談したとされています。ただ信憑性には問題があります。
そうすると、懐良親王が天授元(1375)年に良成親王に「征西将軍職」を譲った後、天授三(1377)年二月「高良山玉垂宮下宮社」に奉願、その四月には八女市星野村小野の「空谷山(後に玉水山)大円寺」に入在、信仰生活に入り、生涯で一番平穏な日々を過ごした遠因と必然性が考えられます。
戦前、「奥八女」の星野・矢部両村は「九州の吉野朝」と称され、八女郡民の誇りでした。確かに、「奥八女」には懐良親王が余生を送った星野村、「後征西将軍宮」良成親王や五條氏、南朝方武将菊池・阿蘇両氏たちが、室町幕府の足利将軍義満方に抵抗を続けた矢部村であり、両村には最も信憑性の高い懐良・良成両親王の墓所があります。
この「奥八女」は、菊池氏や阿蘇氏とも非常に深い関係がありました。キー・ワードは「修験道」です。「修験」(山伏)は「山師」と称され、「鉱山」や「鉱脈」の発見に特別な知識を持っていました。これまで殆ど考察されていませんが、今回は私の独自な






















図1 阿蘇修験の「北峰ルート」
考察と見解を紹介したいと思います。
右の図は阿蘇修験の北峰入りのルートです。なぜ国境を越えて、筑後の「奥八女」に入ったのでしょうか。その地域は懐良親王・良成親王を支えた五條家の支配領域でした。



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熊本郷土史譚研究所 代表 堤 克彦




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