2014年1月12日日曜日

熊本郷土史譚研究所の堤です。

今回は、
月刊「熊本郷土史譚通信」会報 第34
  特集 懐良親王の墓所考 
文責 堤 克 彦(文学博士)
新年到来!明けましておめでとうございます。今年はどんな年になるのでしょうか。みなさんにとってよい年でありますように。私も心機一転の年にしたいと思っています。『くまもと郷土史譚つうしん』も4年目(第4期)に入ります。引き続きの御購読をお願いします。

その導入部分を紹介します。
前号まで6回にわたって、「菊池第十五代武光の事績」について、入手可能な新史料を自分なりに駆使ながら考察してみました。菊池歴代の「南朝一辺倒」の歴史は、第十五代武光の時に最盛期に達し、その後は辛うじて第十六代武政・第十七代武朝までは続きました。特に元中九(1392)年閏十月の「南北朝合一」以降になると、第十八代兼朝と第十九代持朝では父子間に不和が生じるなど、他の地方武士団と同様、菊池氏は一族の内紛に明け暮れるようになります。今回は第十六代武政・第十七代武朝と征西将軍宮懐良親王・後征西将軍宮良成親王について見て行きたいと思います。まず第十六代武政・第十七代武朝に関する略年表を掲載し、その動向を見ておきましょう。

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(たけ) (まさ)
以下守山城居城
◆武光の嫡子次郎。興国三(1342)年生まれ。妻は恵良惟澄の女。父武光の補佐役的存在。正平二十二(1367)年家督相続。肥後守。◆守山城の築城(菊之池城→守山城)。条坊制により隈府町並みの基礎を作す。◆父武光の死後も幕府(北朝)方と交戦。文中二・応安六(1373)年、従兄弟の阿蘇惟武(惟澄の二男)に救援依頼。文中三・応安七(1374)年五月、高良山で死去(33歳)

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(たけ) (とも)
菊池氏の「南朝一辺倒」の終焉。一族内紛の始まり
◆武政の嫡子(母は宗盛義の女か)。加賀(賀々)丸。肥後守。右京大夫。◆父武政の急死、12歳で家督相続。◆懐良親王の引退。(八女郡星野村、矢部村説あり)良成親王とともに戦う。◆天授元・永和元(1378)年「水島の戦い」(14歳)で今川貞世(了俊)らに勝利。天授四・永和四(1378)年、北宮阿蘇神社の建立。同年「詫磨原の戦い」(16歳)で勝利。弘和三(1383)年懐良親王死去。◆武朝・良成親王、本拠地菊池を退去に家臣団の不信。同四(1384)年「武朝申状」を南朝に呈す。◆元中九(1392)年閏十月の「南北朝合一」後も幕府に抵抗(良成親王、矢部郷御杣御所より令旨)。良成親王、応永二(1395)年三月死去。武朝、応永九(1402)年死去(41歳)

弘和三(永徳三、1383)年三月、懐良親王は八女市星野村(矢部村・黒木御所説あり)で死去しています。ところが懐良親王の墓所は数カ所あり、終焉の地を簡単に決めることはできません。果していくつの懐良親王の墓所伝承の比定地はあるのでしょうか。
『星野村史』通史編の第三章「征西将軍宮懐良親王と星野村」の執筆担当者佐々木四十臣氏は、×錆矢堂(大分県中津市)・×普門寺跡(大分県日田市)・×元米良御所(宮崎県西米良村)・△将軍廟(熊本県御船町、但し良成親王か)・○千光寺(福岡県久留米市、但し星野村大円寺からの墓石・骨の移送か)・△悟真寺(熊本県八代市)・◎大明神山(福岡県星野村)の7カ所をあげています。その可能性の有無とその判断の結果は、前の比定地に◎・○・△・×で示しました。
これらの中には懐良親王や良成親王に最も深い関係のあった菊池が含まれていません。菊池には両親王の墓所らしきものはなく、守山城近くの「内裏尾」にあった「将軍宮御座館」跡には、懐良・良成両親王を祭る「雲上宮」が建立されているだけです。上記の複数ある懐良親王の墓所の中から、つぎの2ヶ所について、佐々木氏の参考資料と見解を参考に、私なりの考察してみたいと思います。

  
①八代市妙見町谷「悟真寺」懐良親王墓


②八女市星野村小野「大円寺」裏の大明神山

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