2014年11月22日土曜日

「熊本郷土史譚通信」会報 第41号


熊本郷土史譚研究所の堤です。

 

今回は、

「熊本郷土史譚通信」会報 第41

 

  特集 受け継がれた中世菊池氏(1)  

 

-菊池氏入山と「米良氏」の歴史-

 

その「はじめに」と「おわりに」、それに目次を紹介します。

 

はじめに-

歴代菊池氏は第二十一代重朝の時から衰退し始めました。第二十二代武運(能運)は、その挽回を試みましたが、菊池氏の衰退を食い止めることができませんでした。衰亡を目の当たりにした能運は、菊池氏の存続のために、嗣子「重為」を九州脊梁山中にある「米良郷」(現・宮崎県児湯郡西米良村)に入山させ、地名をとって「米良」姓を名乗ったといわれています。

菊池地方の中世菊池氏は、第二十二代以降は衰退の一途をたどり途絶しましたが、その中世菊池氏は、現在の「西米良村」を中心に「米良氏」として存続、江戸期を経て、明治・大正・昭和そして平成に到っています。これが現在の「西米良村」と「菊池市」の都市間交流の大きな端緒です。

しかし中世菊池氏の「米良入山」には諸説があります。『西米良村史』によれば、①初代菊池則隆の次男政隆(西郷太郎)の子孫「光治」説〔1100年頃〕(「飫肥米良系図」)、②二十二代菊池武運(能運)の弟「重房」説、③菊池武運(能運)の子「重次」(幼名重為)、以下「重為」とす。但し「米良主膳系譜」では「重次」とす)説、④二十二代菊池武運(能運)の弟「重房」(重治)説〔以上、1500年頃〕、⑤二十三代「政隆」入山説〔但し1509年に自刃〕(「相良家史料」)、⑥二十六代義武の子「隆鑑」説、⑦二十六代義武の子「則直」説〔以上、1550年前後〕、⑧良成親王の王子「重為」説〔1390年頃〕があります。また『菊池市史』上巻には、⑨懐良親王の王子「良宗」説〔1380年頃〕(『名和氏紀事』)を紹介しています。〔  〕の年号は筆者によるものです。

 これらの諸説からしても、中世菊池氏の血縁的関係者が米良入山したことは確かですが、上記の諸説の時期は長期にわたっていて、どれか一説に絞るのは非常に難しく、むしろ長期間に複数回の波状的な米良入山の可能性も考えられます。しかし今回は、上記の諸説の中から、個人的に一番信憑性のあると思われる説の絞り込みを試みてみました。

 


写真1 「高山院殿松齢仙壽大居士墓」
(西米良村教育委員会提供)

目次

一、天氏から米良氏へ

二、菊池能運の嗣子入山

1、菊池能運の嗣子「重為」(重次)説 2、菊池能運の弟「重房」説 3、「西米良村民の同姓ベスト10」 4、「米良入山」の背景

三、江戸期の「米良主膳家」

1、「米良主膳家譜」(『西米良村史』)

2、宝永三(1706)年の「高山院殿墓誌銘」(原漢文)

3、江戸期に継承された中世菊池氏(米良氏)

四、米良氏から菊池氏への復姓

1、幕末勤王の米良氏 2、明治の「復姓願」

 

おわりに

九州脊梁山中の「米良郷」にあって、幕末期の新時代の到来の情報を、「米良氏」は一体どのようなルートや方法で入手したのでしょうか。勿論相良藩などの動向からも察知できたでと思われます。しかしその根底には、つぎのような「米良氏」特有の各時代の動向を素早くしかも適格に読み取る「才備」があったのではないかと推測しています。

たとえば、米良家六代重隆が、米良山中に埋没するのを嫌い、いち早く徳川家康に謁見・認知される方法を考え出し、「朝覲」の資格までも確実にしました。また米良家十代則重が「米良主膳」の号を許されたばかりか、六回もの「朝覲」を行っています。「米良氏」は米良山中に居ながらも、幕府との確実な接点を持ち続けていました。

そんな「米良氏」は幕末期でも同様の志向と行動力の共通性を維持・発揮しました。即ち幕府への「旧幕恩顧之列」を捨て、朝廷には「祖先之継志、積年勤王之素志」を明言、「小身微力」で「鬱居」の最中に、「王政御一新之叡慮」を承知し、「難有感佩仕」るなど、時代変革への確かな選択眼を持っていたようです。

 

熊本郷土史譚研究所では、毎月15日(但し4月号から年10回、1月と8月休刊)に「くまもと郷土史譚つうしん」(一部300円、年間購読料3500円)を発行しています。

 

興味のある方は、下記までご連絡ください。

〒861-1323

熊本県菊池市西寺1700-7

 

熊本郷土史譚研究所 代表 堤 克彦

 

電話/FAX 0968-25-3120

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