熊本郷土史譚研究所の堤です。
今回は、
月刊「熊本郷土史譚通信」会報 第39号
特集 菊池文教の源流と展開 (3)
-菊池重朝の「菊池万句」興行-
文責 堤 克
彦(文学博士)
その導入部分を紹介します。
「孔子堂」(くうじどう)は第二十一代菊池重朝の治世の文明四(1472)年に、重朝の父為邦と家老隈部忠直(くまべただのぶ)によって創建、「孔子堂」に孔子の画像や「孔子十哲」の青銅像を祭り、菊池氏の家臣たちを集め、桂庵が「朱子学」を講じ、春・秋の「釈奠の礼」が盛大に興行されていました。京都五山南禅寺の高僧桂庵玄樹(1427~1508)の招聘はその5年後の同九(1477)年で、約一年の滞在であったことについて見てきました。
また「連歌」の歴史は貴族の遊びに始まり、南北朝の頃、二条良基が『菟玖波集』を撰し、連歌の規則書『応安新式』を制定して以来、和歌と同等に見なされたこと、飯尾宗祇(1421~1502)が「正風連歌」を確立、『新撰菟玖波集』を撰したこと、また山崎宗鑑(1460?~1539?)が自由な気風の「俳諧連歌」を作り出し、『犬筑波集』を編集、より親しみやすい「連歌」になりました。
「連歌」の流行の背景には、「連歌」を職業とする「連歌師」が、「応仁の乱」の洛中を避けて各地を遍歴し、地方の大名・武士や庶民の間で「連歌」を普及させたことにありました。その一連の流れの中で、菊池重朝の治世に「武士連歌」として「菊池万句連歌」が興行されたのでした。
本講座ではつぎの項目によって、「連歌」の歴史や形式ばかりでなく、特に「菊池万句連歌」に見られる菊池重朝の家臣構成と祖父持朝の「嘉吉三年侍付氏名」の比較を試み、菊池氏の家臣構成を明らかにすることができました。
一、第二十一代菊池重朝
二、「菊池万句」に至る「連歌」について
1、「連歌」の歴史 2、「連歌」の形式
三、「菊池万句連歌」
1、「菊池万句連歌」の形式
(1)各連衆の句数 (2)「題材」・「用語」の制限
2、「菊池万句連歌」の「連衆」の組み合せ方
3、「菊池万句連歌」興行の目的
四、自選「菊池万句連歌」秀句
「菊池万句連歌」の中から、私の好きな句をいくつか選んで紹介してみました。
・萩が枝に落ちし零さじ月の影(周持)・萩の葉に月も半ばの光かな(北高房)・刈る萱に月も乱るる姿かな(馬見塚宥盛)・匂いきて月にも知るし藤袴(木山惟之)・幾入に移すや月の下紅葉(孝空)・浮草の隙に月ある汀かな(白石頼道)・竹に月色を分けたる末葉かな(竹崎惟氏)・露に猶光を添うる月夜かな(山北邦続)・月入りぬよしや村雨夜半の月(伊牟田家吉)・秋の声月に思はぬ野分かな(平河高冬)・月や読む雁ぞ連なる文字の声(佐藤邦佐)・星やその月の宮守宿直人(西山安貞)・暮れぬれば月に魅かるる杣木かな(塚本親勝)・月ひとり八十島巡る光かな(桜井公綱)・月にのみ心ぞ澄める秋の水(山口朝昌)・沢に見る月には他所の秋もなし(元照)・底清き岩井に淋し秋の月(早岐英冬)・天人の袖か岩尾の月白し(内古閑頼続)・影淋し有明の月秋の庭(隈部朝夏)・さやかなる月こそ秋の窓の雪(長野右俊)・明けて猶月も色添ふ簾かな(城朝成)・菅筵心を伸ぶる月夜なか(願成寺弥阿)・暮るる夜の鐘より月に成りにけり(願成寺吾阿)・世に向ふ月は塵なき鏡かな(高倉家俊)・影澄める月は御池の心かな(多門院珠長)・夜ぞ惜しき月は残れる朝かな(重朝)
如何でしょうか。「菊池万句連歌」の長句(発句)は、かつて「鬼取り拉ぐ武士」と恐れられた菊池氏の家臣たち一人ひとりが詠んだ所謂「武士連歌」ですが、「文雅の嗜み深かった」隈部忠直に劣らぬなかなかの俳趣武士が多かったようです。皆さんも是非気に入った秀句を選んでみてください。
熊本郷土史譚研究所では、毎月15日(但し4月号から年10回、1月と8月休刊)に「くまもと郷土史譚つうしん」(一部300円、年間購読料3500円)を発行しています。
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熊本郷土史譚研究所 代表 堤 克彦
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