2014年5月10日土曜日

熊本郷土史譚研究所の堤です。

今回は、
月刊「熊本郷土史譚通信」会報 第38

  特集  菊池文教の源流と展開 () -「孔子堂」建立の中心人物は?-

その導入部分を紹介します。
「室町時代」は時代的に不安定だったにもかかわらず、京都を中心にして、非常に多種多様な「室町文化」が生まれました。そしてそれらは「応仁の乱」を契機に、各地方に波及していきました。その「室町文化」の主流は「五山文学」と「連歌」でした。まず本号では中世的「菊池文学」(菊池文教)を代表する「孔子堂」の建立についてみていきます。「孔子堂」は漢音で「こうしどう」ですが、建立地の高野瀬地区では古くから呉音で「くじどう」または「くーじどう」といっています。

一、中世「菊池文学」(菊池文教)の起源
中世「菊池文学」(菊池文教)の起源の時期は、従来第二十一代菊池重朝が文明四(1472)年の「孔子堂」(くじどう)を建立し、文明十三(1481)年に「菊池万句」(連歌)を興行したことが通説となっています。しかしいろいろ調べる中で、新たな疑問が生じてきました。
例えば、菊池重朝は文明元(1469)年の「応仁の乱」当時、山名持豊(西軍)方についた大内政弘に味方して洛中で在陣していました。また前号の『朝鮮王朝実録』の記事には、菊池重朝が足利将軍の命で京都に留まり、肥後国菊池に帰ってきたのは文明六(1474)年四月と記されていました。『朝鮮王朝実録』の記事ですので、年月の間違いはほとんどないと思われます。
即ち菊池重朝が「孔子堂」を建立したとされる文明四(1472)年には、重朝はまだ洛中にいたので、直接「孔子堂」の建立にたずさわることはできません。ただ京都にいた重朝が最も信頼していた菊池にいた重臣の隈部忠直(ただのぶ)に命じて建立させたことは十分考えられます。
また重朝が文明九(1477)年に京都五山南禅寺の禅僧桂庵玄樹を招聘しますが、「孔子堂」建立の5年後、重朝帰国の3年後にあたり、時期的にも合致しますので、桂庵の招聘は重朝によるものと考えても間違いないと思います。桂庵招聘後は菊池為邦・重朝父子が直接関わっています。
以上のことから、これまでの重朝による「孔子堂」建立説は、その時代が重朝の治世であっただけで、実際は在郷の為邦と持朝・為邦・重朝の三代に仕えた重臣隈部忠直との間で、重朝の在京中に「孔子堂」建立の相談が進行していたと思われます。
そこで本号では、「孔子堂」建立に代表される中世「菊池文学」(菊池文教)の起源に関して、菊池重朝の父為邦まで遡ることにしました。また菊池氏の重臣として前の三代に非常に信頼され、その上文学(学問や学芸。詩文に関する学術。文芸)にも造詣の深かった隈部忠直については、その出自や菊池氏重臣としての役割について見ていくことにします。
【目次】
一、中世「菊池文学」(菊池文教)の起源
二、第二十代菊池為邦
1、「受図書人」としての朝鮮貿易  2、「神龍山碧巌寺」の建立の背景
3、清韓の「菊池為邦画像」讃
三、菊池氏三代の重臣隈部忠直
1、隈部忠直(14261494)の出自  2、隈部忠直の「忠孝」
3、隈部忠直の「儒学」開眼  4、「孔子堂」建立の背景
四、「孔子堂」建立と桂庵玄樹の招聘

おわりに
「菊池文教」の基盤作りをしたのは第二十代の菊池持朝でした。持朝が「五山文学」の影響に加え、「受図書人」の特権を最大限活用し、「朝鮮貿易」に熱心であった背景には、直接「宋学」(朱子学)書籍の輸入があったのではないかと推測しましたが、まだ朝鮮「朱子学」関係の漢籍が見つかっていません。今後の調査で「碧巌寺」や「玉祥寺」から朝鮮版の漢籍が一冊でも発見されればと思っています。
また「孔子堂」建立の中心人物は、第二十一代菊池重朝ではなく、その建立時期が菊池重朝の治世であっただけで、持朝・重朝父子に仕えた重臣隈部忠直がその中心であったのではないかという私説を紹介し、その根拠に忠直の亡母の「追善供養塔」に見られた『儒学』(朱子学)の「孝悌」や曾参著の『孝経』の思想をあげましたが、如何でしょうか。読者の皆さんの考えをお聞かせください。

熊本郷土史譚研究所では、毎月15日(但し4月号から年10回、1月と8月休刊)に「くまもと郷土史譚つうしん」(一部300円、年間購読料3500円)を発行しています。

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熊本郷土史譚研究所 代表 堤 克彦



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