2013年12月9日月曜日

熊本郷土史譚研究所の堤です。

今回は、月刊「熊本郷土史譚通信」会報 第33
  特集 菊池第十五代武光の事績(6) 
-「松囃子能場」と「通シ物」の起源-
   文責 堤 克 彦(文学博士)

その導入部分と内容の一部を紹介します。

はじめに
前号で、徳島文理大学吉川周平氏の論文「菊池の松囃子について」(菊池市教育委員会編『菊池の松囃子』1994年所収)の中で論じられた「菊池松囃子能」の起源説に対して、些か私説を述べてみましたが、私の言いたいことはわかっていただけたでしょうか。少し学問的な世界に入り込んでしまい、専門的な論の展開もあって、分かりづらい所があったのではないかと心配しています。
今回も吉川周平氏が論文「菊池の松囃子について」の中で展開されている「通シ物」(古文書では「通し物」・「通物」と記す)について論じてみたいと思います。まず吉川氏の説を紹介して、吉川氏と違う視点からの私説を、入手可能な資料をもとに、少しく展開を試みることにしました。

1、「松囃子能場」の定舞台
宝暦七(1757)年七月の「松囃子能場」は、「古来よりの礎等、今に御座候を用い、仮舞台毎年仕立て相勤め申し候。往古の舞台は焼失」したといいます。また『菊池風土記』によれば、37年後の寛政六(1794)年の段では、「昔よりの舞台は朽ち損じ畳み置き、当時仮舞台に取り立て興行」してきたと記しています。
始めは「定舞台」が設けられていたのが、焼失か朽ち損じにより、毎年「仮舞台」(仮小屋)を組み立て、興行が終れば片付け、その材料は次年の神事興行まで保管され、それを繰り返し使用していました。
そんな中で、つぎの資料に登場する隈府町の町人らから、肥後藩庁に常設の「松囃子能場」(能舞台)の建築願いが出されました。当時「倹約令」を出していた藩は、「華美」にならないのを条件に許可、寛政八(1796)年五月より取り懸り、七月十二日に「成就」(竣工)しています。その経緯について、『菊池風土記』の「追補」に、つぎのように書かれています。

(中略) 

5、「松囃子能」と「通シ物」は別々の始まり
以上の地方(じかた)文書から、菊池の「松囃子」の場合は、「通シ物」(俄物真似の行列)を最初から松囃子の一部とする吉川説と違って、同時に始まったものではなく、かなりの時代を経てから、しかもまったく別の動機で始まったのが、やがて一体化した祭事・行事になったのです。
即ちまず神事の「松囃子能」(懐良親王菊池下向、1348年以降)があり、ついで16年後の武光の凱旋祝いで「通物・行列・物真似」(1364年)が登場し、それから19年後に菊池武政が勧請した北宮神社の神事、即ち松囃子能場までの「神輿御幸・滞輿」(1383年)が一緒になって、その後「松囃子能」の祭事・行事となったわけです。
そのためか、各祭事の期間もまちまちでした。「松囃子能」の神事は七月十五日の1日だけ、「通物・行列・物真似」は七月朔日夜より十五日夜迄の15日間、北宮神社の能場(祭事場)への神輿御幸・滞輿は十二日より十五日迄の3日間でした。この期間の違いが、最初から「松囃子の一部」でない有力な証拠になると思います。
これは「地方文書」が地元菊池にあって直接に見る機会があったから示せる見解です。同時に郷土史家の研究が如何に必要でかつ重要であるか、久しぶりにその醍醐味を味わうことになりました。

熊本郷土史譚研究所では、毎月15日に「くまもと郷土史譚つうしん」(一部300円、年間購読料3500円)を発行しています。
来年4月からは「菊池文教の源流と展開、江戸期の菊池古学」を特集する予定です。

興味のある方は年間購読をお願いします。下記までご連絡ください。

〒861-1323

熊本県菊池市西寺1700-7

電話/FAX 0968-25-3120

熊本郷土史譚研究所 代表 堤 克彦


2013年11月3日日曜日

みんないっしょに郷土史家になろう!! 

      月刊「熊本郷土史譚通信」会報 第32

  特集 菊池第十五代武光の事績(5) 

      -「菊池松囃子能」の詞章と起源-
文責 堤 克 彦(文学博士)

熊本郷土史譚研究所の堤です。

今回は、「菊池松囃子能」の詞章と起源

その導入部分を紹介します。



はじめに
菊池市の「秋季大例祭」は、菊池神社の祭で「新宮さん」の愛称で呼ばれています。毎年十月十三日には、「松囃子能」が菊池高校正門横の「将軍木」前にある「松囃子能場」で奉納されます。平成十(1998)年十二月十六日には、国の「重要無形民俗文化財」に指定されました。
「松囃子能」は、第十五代菊池武光が10歳前後で京都を離れ、10年程かけて菊池に到着した「征西将軍宮」懐良親王を慰めるために、京都で流行の芸能を菊池に持ち込んだと伝えられています。
「将軍木」には、「征西将軍宮」懐良親王の手植えとか親王愛用の杖が根付いたなどの伝承があり、樹齢は650年と推定されています。また懐良親王の死後、「将軍木」は親王に見立てられた神木であり、江戸期には「松囃子能」そのものが大事な神事でした。「松囃子能」が中止された時は、必ず隈府町に大火があったと伝えられています。そして今日まで「松囃子能」は継承されてきました。
今回は「松囃子能」の「詞章」(謡い)やその起源について検討します。また「民間芸能史」の位置づけでは、研究者の諸説を紹介し、若干私説を交えて考察を試みてみたいと思います。




熊本郷土史譚研究所では、毎月15日に「くまもと郷土史譚つうしん」
(一部300円、年間購読料3500円)を発行しています。


興味のある方は、下記までご連絡ください。

〒861-1323

熊本県菊池市西寺1700-7

電話/FAX 0968-25-3120

熊本郷土史譚研究所 代表 堤 克彦





2013年10月1日火曜日

月刊「熊本郷土史譚通信」会報 第31
  特集 菊池第十五代武光の事績(4) 
-菊池武光と「正観寺」建立と「菊池五山」制-

熊本郷土史譚研究所の堤です。

今回は、

  特集 菊池第十五代武光の事績(4) 


-菊池武光と「正観寺」建立と「菊池五山」制-


その導入部分を紹介します。

 
  既号で紹介したように、第十五代菊池武光は、正平三(1348)年二月頃、「征西将軍   
 宮」懐良親王を菊池に迎え入れました。第28号では1年遅れの正平四(1349)年説で論じ 
 ましたが、本号から通説とされる「正平三(1348)年説」を採用することにします。

それから11年後の正平十四(延文四〔1359〕)年七・八月の「筑後川の戦い」(大原合

戦・大保原合戦)では、博多港と太宰府を支配していた少弐頼尚勢に勝利しました。そ

して2年後の正平十六(1361)年八月十六日には、懐良親王・菊池武光ら南朝方は「大

宰府入り」を果しました。

さらに2年後の正平十八(1363)年には「征西将軍府」を開設し、応安五(1372)年の

太宰府陥落までの約10年間(正平十六〔1361〕年八月十六日の「大宰府入り」からの12

年説もある)は、太宰府に「征西将軍府」が置かれ、九州における南朝方の全盛時代で

した。

菊池武光は、征西将軍宮懐良親王が「菊池入り」した正平三(1348)年を契機に、「守

山城」の築城を開始しています。

 同時に臨済宗系の「熊耳山正観寺」を建立したり、また「京都五山」の制をまねて

「菊池五山制」を実施したり、さらに「松囃子能」や「通物」(俄行列)を始めるな

ど、仏教・芸能の振興事業を矢継ぎ早に実施しています。

これらの背景には、10歳頃に京都を離れ、10年程かけて菊池に到着し、すでに20歳前後

になっていた「征西将軍宮」の懐良親王を慰めるために、菊池武光が当時京都で流行し

ていた文化や芸能を、意識的に菊池の地に持ち込んだとされています。

本号では「熊耳山正観寺」建立と「菊池五山」の制について見ていくことにします.これ

らの事業は、菊池武光にとってどんな理由や目的によるものであったのかを、歴史学 

的・民俗学的な視点を踏まえながらの考察を試みてみたいと思います。

                             南福寺




 写真は「菊池五山」です。                
「菊池五山」巡りも、おもしろいオル

レコースになります。






       大琳寺



                                              
                              






                         北福寺















        西福寺

                        




                             





       東福寺



   





    











 

熊本郷土史譚研究所では、毎月15日に「くまもと郷土史譚つうしん」(一部300円、年

間購読料3500円)を発行しています。

興味のある方は、下記までご連絡ください。

〒861-1323

熊本県菊池市西寺1700-7

電話/FAX 0968-25-3120


熊本郷土史譚研究所 代表 堤 克彦

2013年9月5日木曜日

「熊本郷土史譚通信」会報 第30
  特集 菊池第十五代武光の事績(3) 
-「征西将軍府」開設と明の「倭寇禁圧」要請

熊本郷土史譚研究所の堤です。

今回は、
 特集 菊池第十五代武光の事績(3) 
-「征西将軍府」開設と明の「倭寇禁圧」要請
について書いてみました。

その導入部分を紹介します。
                                   
  第29十五代菊池武光が正平十四(1359)年八月、少弐頼尚勢に勝利した「筑後川の戦

い」について書きました。七月十九日、菊池勢は「五千余騎にて、筑後川をうち渡り、小弐が陣へ

押し寄」せると、小弐頼尚は「戦はず三十余町引き退き、大原に陣を取る」作戦に出ました。

菊池勢はさらに攻めましたが、少弐氏は「あはひ(間)に深き沼有って細道一つ有りけるを、三所堀

り切って、細き橋を渡し」て行く手を阻みました。


東寺僧侶の『延文四年記』の延文四(正平十四、1359)年十

月二日条に「菊池九州において合戦しおわんぬ。少弐討たれ

おわんぬ」とあります。

  「筑後川の戦い」では「大保原」(大原)が主戦場になったの

で「大保原(おおほばる)合戦」(大原合戦)といい、通説では

「筑後川の戦い」と同じとされています。ただ宝永七(1710)年

の井澤長秀編『佐佐軍記』附録巻十には、「正平十七(1362

年懐良親王ヲ大将トシ奉リ、菊池・新田以下太宰府ニ寄テ、

少貮頼尚・忠資(八月十六日夜半に討死)ト戦フ。少貮利ヲ失

フ」とあり、「筑後川の戦い」(大保原合戦)を指すものと思われます。

 「菊池・新田以下太宰府ニ寄テ」の文言から、懐良親王・菊池武光はすでに「大宰府」に居たこと

になり、その点では正平十六(1361)年八月十六日の「大宰府入り」の通説と一致するのですが、

「筑後川の戦い」と直結する「大保原合戦」とは、その関連性が薄くなってしまいます。さていずれを

史実と考えてよいのでしょうか。
 
 おそらく井澤長秀の誤りと思われますが、井澤長秀の著述内容はかなり正確であり、この文言は

一度時系列的に考えてみた方がよいかもしれません。

懐良親王・菊池武光ら南朝方は「大宰府入り」後の正平十八(1363)年に「征西将軍府」(左上図)

を開設、九州北部中心に九州一円を統治しました。その後の南朝方の動向はどうだったのでしょう

か。

 また「征西将軍府」は、明の洪武帝の「倭寇の禁圧」の要請に応えられたのでしょうか。菊池氏は

「倭寇」と関係があったのでしょうか。これについてはかなり詳しく色々な研究書や古文書を使って、

その解明を試みています。

   
      倭寇図




熊本郷土史譚研究所では、毎月15日に「くまもと郷土史譚つうしん」(一部300円、年間購読料

3500円)を発行しています。

興味のある方は、下記までご連絡ください。

〒861-1323

熊本県菊池市西寺1700-7


電話/FAX 0968-25-3120

熊本郷土史譚研究所 代表 堤 克彦