2013年9月5日木曜日

「熊本郷土史譚通信」会報 第30
  特集 菊池第十五代武光の事績(3) 
-「征西将軍府」開設と明の「倭寇禁圧」要請

熊本郷土史譚研究所の堤です。

今回は、
 特集 菊池第十五代武光の事績(3) 
-「征西将軍府」開設と明の「倭寇禁圧」要請
について書いてみました。

その導入部分を紹介します。
                                   
  第29十五代菊池武光が正平十四(1359)年八月、少弐頼尚勢に勝利した「筑後川の戦

い」について書きました。七月十九日、菊池勢は「五千余騎にて、筑後川をうち渡り、小弐が陣へ

押し寄」せると、小弐頼尚は「戦はず三十余町引き退き、大原に陣を取る」作戦に出ました。

菊池勢はさらに攻めましたが、少弐氏は「あはひ(間)に深き沼有って細道一つ有りけるを、三所堀

り切って、細き橋を渡し」て行く手を阻みました。


東寺僧侶の『延文四年記』の延文四(正平十四、1359)年十

月二日条に「菊池九州において合戦しおわんぬ。少弐討たれ

おわんぬ」とあります。

  「筑後川の戦い」では「大保原」(大原)が主戦場になったの

で「大保原(おおほばる)合戦」(大原合戦)といい、通説では

「筑後川の戦い」と同じとされています。ただ宝永七(1710)年

の井澤長秀編『佐佐軍記』附録巻十には、「正平十七(1362

年懐良親王ヲ大将トシ奉リ、菊池・新田以下太宰府ニ寄テ、

少貮頼尚・忠資(八月十六日夜半に討死)ト戦フ。少貮利ヲ失

フ」とあり、「筑後川の戦い」(大保原合戦)を指すものと思われます。

 「菊池・新田以下太宰府ニ寄テ」の文言から、懐良親王・菊池武光はすでに「大宰府」に居たこと

になり、その点では正平十六(1361)年八月十六日の「大宰府入り」の通説と一致するのですが、

「筑後川の戦い」と直結する「大保原合戦」とは、その関連性が薄くなってしまいます。さていずれを

史実と考えてよいのでしょうか。
 
 おそらく井澤長秀の誤りと思われますが、井澤長秀の著述内容はかなり正確であり、この文言は

一度時系列的に考えてみた方がよいかもしれません。

懐良親王・菊池武光ら南朝方は「大宰府入り」後の正平十八(1363)年に「征西将軍府」(左上図)

を開設、九州北部中心に九州一円を統治しました。その後の南朝方の動向はどうだったのでしょう

か。

 また「征西将軍府」は、明の洪武帝の「倭寇の禁圧」の要請に応えられたのでしょうか。菊池氏は

「倭寇」と関係があったのでしょうか。これについてはかなり詳しく色々な研究書や古文書を使って、

その解明を試みています。

   
      倭寇図




熊本郷土史譚研究所では、毎月15日に「くまもと郷土史譚つうしん」(一部300円、年間購読料

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熊本郷土史譚研究所 代表 堤 克彦



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