「熊本郷土史譚通信」会報 第30号
特集 菊池第十五代武光の事績(3)
-「征西将軍府」開設と明の「倭寇禁圧」要請-
熊本郷土史譚研究所の堤です。
今回は、
特集 菊池第十五代武光の事績(3)
-「征西将軍府」開設と明の「倭寇禁圧」要請-
その導入部分を紹介します。
第29号第十五代菊池武光が正平十四(1359)年八月、少弐頼尚勢に勝利した「筑後川の戦
い」について書きました。七月十九日、菊池勢は「五千余騎にて、筑後川をうち渡り、小弐が陣へ
押し寄」せると、小弐頼尚は「戦はず三十余町引き退き、大原に陣を取る」作戦に出ました。
い」について書きました。七月十九日、菊池勢は「五千余騎にて、筑後川をうち渡り、小弐が陣へ
押し寄」せると、小弐頼尚は「戦はず三十余町引き退き、大原に陣を取る」作戦に出ました。
東寺僧侶の『延文四年記』の延文四(正平十四、1359)年十
月二日条に「菊池九州において合戦しおわんぬ。少弐討たれ
おわんぬ」とあります。
月二日条に「菊池九州において合戦しおわんぬ。少弐討たれ
おわんぬ」とあります。
「筑後川の戦い」では「大保原」(大原)が主戦場になったの
で「大保原(おおほばる)合戦」(大原合戦)といい、通説では
「筑後川の戦い」と同じとされています。ただ宝永七(1710)年
の井澤長秀編『佐佐軍記』附録巻十には、「正平十七(1362)
年懐良親王ヲ大将トシ奉リ、菊池・新田以下太宰府ニ寄テ、
少貮頼尚・忠資(八月十六日夜半に討死)ト戦フ。少貮利ヲ失
フ」とあり、「筑後川の戦い」(大保原合戦)を指すものと思われます。
「菊池・新田以下太宰府ニ寄テ」の文言から、懐良親王・菊池武光はすでに「大宰府」に居たこと
になり、その点では正平十六(1361)年八月十六日の「大宰府入り」の通説と一致するのですが、
「筑後川の戦い」と直結する「大保原合戦」とは、その関連性が薄くなってしまいます。さていずれを
史実と考えてよいのでしょうか。
になり、その点では正平十六(1361)年八月十六日の「大宰府入り」の通説と一致するのですが、
「筑後川の戦い」と直結する「大保原合戦」とは、その関連性が薄くなってしまいます。さていずれを
史実と考えてよいのでしょうか。
おそらく井澤長秀の誤りと思われますが、井澤長秀の著述内容はかなり正確であり、この文言は
一度時系列的に考えてみた方がよいかもしれません。
懐良親王・菊池武光ら南朝方は「大宰府入り」後の正平十八(1363)年に「征西将軍府」(左上図)
を開設、九州北部中心に九州一円を統治しました。その後の南朝方の動向はどうだったのでしょう
か。
一度時系列的に考えてみた方がよいかもしれません。
懐良親王・菊池武光ら南朝方は「大宰府入り」後の正平十八(1363)年に「征西将軍府」(左上図)
を開設、九州北部中心に九州一円を統治しました。その後の南朝方の動向はどうだったのでしょう
か。
また「征西将軍府」は、明の洪武帝の「倭寇の禁圧」の要請に応えられたのでしょうか。菊池氏は
「倭寇」と関係があったのでしょうか。これについてはかなり詳しく色々な研究書や古文書を使って、
その解明を試みています。
「倭寇」と関係があったのでしょうか。これについてはかなり詳しく色々な研究書や古文書を使って、
その解明を試みています。
熊本郷土史譚研究所では、毎月15日に「くまもと郷土史譚つうしん」(一部300円、年間購読料
3500円)を発行しています。
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熊本県菊池市西寺1700-7
熊本郷土史譚研究所 代表 堤 克彦