熊本郷土史譚研究所の堤です。
今回は、
月刊「熊本郷土史譚通信」会報 第40号
特集 菊池文教の源流と展開 (4)
-途絶した「菊池文教」と「孔子十哲」像の行方-
講師:堤 克 彦(文学博士)
その導入部分を紹介します。
はじめに-
第二十一代菊池重朝の治世に始まった「菊池文教」は、「孔子堂」の建立と「菊池万句」の興行に
よって代表されます。まず「孔子堂」の建立は菊池持朝・為邦・重朝三代に仕えた重臣隈部忠直を
中心に建立されたと考えられます。
よって代表されます。まず「孔子堂」の建立は菊池持朝・為邦・重朝三代に仕えた重臣隈部忠直を
中心に建立されたと考えられます。
その後桂庵玄樹の招聘により、「朱子学」が他国にさきがけて、菊池地方の学問的源流になり、ま
た菊池重朝およびその重臣や家臣たちによる「菊池万句」の興行は、その質の高さとともに、当時
盛んだった「連歌」を、この菊池地方でもしっかりと受け止めていた歴史的な証明でした。
しかしこのように隆盛を極めた「菊池文教」はその後どうなったのでしょうか。それは菊池重朝の動
向と共に推移していきました。
一、第二十一代菊池重朝の治世の終り
菊池重朝には叔父に宇土為光がいました。祖父持朝の子で、父為邦の実弟でした。為光は宇土
家を継いで、宇土弾正大弼と称し、宇土家の始祖となった人物であり、当時八代・葦北・球磨・天草
四郡の領主でした。
家を継いで、宇土弾正大弼と称し、宇土家の始祖となった人物であり、当時八代・葦北・球磨・天草
四郡の領主でした。
その為光は菊池本家と不仲になり、文明十五(1483)年四月には、菊池重朝の肥後守護職に取っ
て代わろうとして挙兵しました。この為光の挙兵には相良為続が与(くみ)し、重朝は派兵して、益
城郡守富荘で撃破しました。
また為光は翌十六年には木原赤熊とも戦って敗れました。さらに名和顕忠の家臣蜂須賀家親の短
兵(刀剣や手槍)に大敗し、為光は八代に敗走し、松隈に匿われました。しかし相良長毎(ながつ
ね)の請いによって許され、宇土に帰えることになりました。
これより前に、阿蘇家では惟忠と惟家が阿蘇大宮司をめぐって対立していました。惟家が菊池氏を
頼ったため、阿蘇大宮司をめぐる内紛は菊池氏と阿蘇氏の争いに発展しました。そして文明十七
(1485)年十二月の益城郡矢部荘での「幕平の合戦」で大敗北を喫してしまいました。
この戦いは相良為続の調停により菊池重朝は阿蘇惟忠と和解しましたが、菊池氏の権威は失墜
していて、菊池氏の衰弱・滅亡への端緒となりました。そして重朝は明応二(1493)年十月二十九
日に死去、享年四十五歳(四十九歳説あり)でした。
文明十五(1483)年四月の菊池重朝の叔父宇土為光との戦いは、文明四(1472)年の「孔子堂」(く
じどう)建立から11年目、同九(1477)年京都五山南禅寺の桂庵玄樹和尚を招聘から6年目、同十
三(1481)年八月の「菊池万句」(連歌)の興行から2年目に当たりました。重朝の死去はそれから
10年後のことでした。菊池重朝が本気でやろうとした「菊池文教」は、菊池氏の権威失墜と衰弱さら
に重朝の死によって、残念ながら長く続かないまま途絶してしまうことになりました。
二、第二十二代菊池武運(能運) 三、菊池氏の衰退と終焉
四、「孔子十哲」像の行方
「聖像問題」について、菊地側は「宝暦四(1754)年細川重賢侯、藩学時習館を起すに當り、隈府町
宗傳次重盈(しげみつ)は自家傳来の菊池氏聖像その他の寶器を、時習館用として献納した」と主
張しましたが、北岡邸側は享和二(1802)年十一月、池田大民による「聖像」の寄贈に、藩侯が喜
んでもらったとの公文書で反論した経緯を見てきました。
宗傳次重盈(しげみつ)は自家傳来の菊池氏聖像その他の寶器を、時習館用として献納した」と主
張しましたが、北岡邸側は享和二(1802)年十一月、池田大民による「聖像」の寄贈に、藩侯が喜
んでもらったとの公文書で反論した経緯を見てきました。
しかしながら中山黙斎は天明五(1785)年に著した『学政考』の中で、「聖堂のなきは、所謂為九仭
功虧一簣」といい、下田一喜は『稿本・肥後文教史』で、明快に「(聖堂の)建築はなかりし。因て釈
奠釈祭の儀なし」と記していました。
そうしますと、渋江公寧書翰の追伸に記された「時習館秋山玉山態々孔子堂の遺礎を熊本に運搬
し、礎となせし事も有之」云々は「父老の口碑」と違わず、「時習館講堂の西に聖堂の礎は据附」ら
れたかもしれません。しかし肝心の「孔子十哲像」は菊池重朝時代の「孔子堂」のものではなく、や
はり池田大民が寄贈した「聖像一躰・子路像一躰並に附属香爐」であったとするのが自然ではない
でしょうか。
しかし「時習館図」で「時習館講堂の西」をさがしても「聖堂」らしき建物は記されていません。おそら
く「礎は据附」けたまま、ついに「聖堂」が建立されなかったのでしょう。また「寄贈」の「聖像」を用い
た「釈奠の礼」が挙行されたかどうかわかりません。もしされたとすれば、「時習館講堂」で行なわ
れたのではないかと推測しています。如何でしょうか。
熊本郷土史譚研究所では、毎月15日(但し4月号から年10回、1月と8月休刊)に「くまもと郷土
史譚つうしん」(一部300円、年間購読料3500円)を発行しています。
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