2014年4月13日日曜日

熊本郷土史譚研究所の堤です。

今回は、
  特集  菊池文教の源流と展開 (1)  
-中世「菊池文教」の時代的背景-

その導入部分を紹介します。
「文教菊池」か、将また「菊池文教」なのか。地元では「文教菊池」の方がよく使われています。これはただ「菊池」と「文教」の語順の前後関係ではなく、いずれが「菊池地方の歴史に合致した表現」なのか、個人的には密かに悩んでいます。
中世では菊池氏の下で「文教」が興隆したという意味で「菊池文学」(菊池の学芸・学問の意)の表現もあります。後述の「五山文学」にあやかったのかもしれません。そこでこの「くまもと郷土史譚つうしん」では、「菊池」で栄えた「文学」(文教)の意で、「菊池文教」を採用しました。
【目次】
一、「大義名分論」の変移
1、中世的「大義名分論」  2、近世的「大義名分論」
二、中世「菊池文教」の背景
1、菊池氏の「禅宗」への帰依  2、菊池氏の「儒学」への移行
三、「室町文化」と地方波及
1、「室町文化」の多様性   2、地方波及の原因
、「五山文学」と「朱子学」
1、「五山文学」と「宋学」(朱子学)  2、桂庵玄樹(14271508)の経歴
3、「桂庵学」の特徴   4、「薩南学派」の形成

その中で「二、中世『菊池文教』の背景」を紹介します。
 菊池氏の「南朝正統論」・「南朝一辺倒」の根拠が「宋学」(朱子学)による「大義名分論」にありましたが、そこに至るまでには、おそらく以下述べるような菊池氏の精神的支柱の移行があったと考えられます。

1、菊池氏の「禅宗」への帰依
歴代の菊池氏は神社・寺院を建立して精神的な支柱としてきました。例えば第十二代菊池武時は、元徳二(1330)年大智禅師を開山に「鳳儀山聖護寺」(曹洞宗)を建立し師匠と仰ぎました。また第十三代武重は、延元三(1338)年七月に有名な起請文「よりあひしゆのないたんのこと」(寄合衆の内談の事)を起筆し、菊池一族内部の結束を図るための「菊池家憲」としました。また第十四代武士も菊池氏の後継者の選出・決定に関して、盛んに「起請文」を起筆しています。
この時期は、北畠親房が「宋学」(朱子学)の「大義名分論」の影響が見られた『神皇正統記』(1339)を著した同時期で、中世的「大義名分論」の影響が出始めていましたが、菊池武重や武士は盛んに「起請文」を起筆していました。「起請文」とは、自ら「守り行うべきことを、神仏にかけて相手方に誓約した文書」で、自己の行動・行為・思考など、神仏を介して規制・制約する誓約書でした。
一族・家臣らも恐れる「神罰・仏罰」は、誓約の信憑性を高め、「起請文」の内容の許諾と協力を容易にし、一族や家臣の結束をさらに強固なものにしました。その信頼度は、中世の裁判でも「起請文」によって、判決が下されるほど強い拘束力をもっていたと言われています。
「鳳儀山聖護寺」開山の大智禅師は、「鎌倉五山」の「建長寺」で南浦紹明・釈雲らに師事、正和三(1314)年に元に渡り、古林清茂・雲外雲岫らに学び、正中元(1324)年帰国。そして元徳二(1330)年に「鳳儀山聖護寺」を開山しています。このように当時の禅僧たちは「五山」に依拠し、「禅宗」ばかりでなく「宋学」(朱子学)も学び、大きな影響を受けていました。
即ち武士階級の勃興と共に、その精神的支柱として「禅宗」(曹洞宗・臨済宗)が弘布していきましたが、その過程で「禅学」とともに「宋学」(「禅林の儒学」)が盛んになりました。このような経過の下で、宮廷・公家の早期儒学即ち「宮廷儒学」(漢・唐の訓詁学)に替って、日本国内に新たな「儒学」革新の気運が旺盛になり、鎌倉・室町期の精神生活でも、最初は「仏教」(禅宗)が主で、「儒学」が従でしたが、やがて仏・儒が逆転してしまいました。

2、菊池氏の「儒学」への移行
鎌倉・室町期の「仏教」が主であった精神生活では、「起請文」は十分功を奏し、一族や家臣の統制・結束を十分に可能にしましたが、やがて「儒学」が主に成っていく過程で、その効力が薄くなり形式的なものになって行きました。
元中九(1392)年閏十月の「南北朝合一」以後は、菊池氏の「南朝正統論」・「南朝一辺倒」という「大義名分論」も色あせてしまっていました。新たな一族の統制・結束手段として浮上してきたのが「儒学」即ち「宋学」(朱子学)だったのでした。
さらに拍車をかけたのが、前号で紹介した菊池兼朝・持朝の父子の対立や『朝鮮王朝実録』でみた菊池一族の「受図書人」をめぐる内紛(菊池為幸による菊池為邦の「受図書人」資格奪取事件)など、これまでそれなりに盤石であった菊池一族がその内部から揺らぎ始めていました。
このような事件が起こる中で、第二十一代重朝は一族や家臣の結束を図るための「大義名分論」として、「儒学」の「孝悌」(父母に孝行を尽し、よく兄に仕えて従順であること)・「忠信」(忠義と信実、誠実で正直なこと)の必要を感じ重視したのでしょう。
これまで重視した「仏教」(慈悲による人間の平等を唱え、人間自身に根ざし人間自身の生き方が基本とする)と違った価値観が必要になってきたのではないかと推測しています。最早この段階では、南北朝期の「南朝」への「節義と分限」や「道義」という「大義名分論」よりも、新たな一族の統制・結束を大前提に、「儒学」の「大義名分論」が必要不可欠であったのではないでしょうか。
「仏教」を介した「起請文」形式の誓約による制約ではなく、一族・家臣などやその他の者にも、「宋学」(朱子学)の普及・教化を通し、彼等の思考や行動に「孝悌」・「忠信」の実行を要求する「儒学」の方がより効果があると判断したのでしょう。しかも宗教性を残したままの「儒教」ではなく、「五山文学」で学問的な「儒典」研究の対象となった論理性を重視した「儒学」でした。

熊本郷土史譚研究所では、毎月15日(但し4月号から年10回、1月と8月休刊)に「くまもと郷土史譚つうしん」(一部300円、年間購読料3500円)を発行しています。

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熊本郷土史譚研究所 代表 堤 克彦