月刊「熊本郷土史譚通信」会報 第28号
は、菊池第十五代武光の事績(1)とし
て、征西将軍宮懐良親王の九州下向と
それを援助した「修験道」とその経路など
について特集してみました。
は、菊池第十五代武光の事績(1)とし
て、征西将軍宮懐良親王の九州下向と
それを援助した「修験道」とその経路など
について特集してみました。
その導入部分を紹介します。
歴代の菊池氏26代のうち、地元の小学生たち
が知っているのは、初代の菊池則隆と第十五
代菊池武光です。
初代の菊池則隆については既号で見ていますので、
第十五代菊池武光について、これから数回にわたって、菊池氏の「南朝一辺倒」最後の立役者とし
ての事績を見ていくことにします。
まずつぎの菊池武光の略系譜で菊池武光の事績の概略を把握してください。
が知っているのは、初代の菊池則隆と第十五
代菊池武光です。
初代の菊池則隆については既号で見ていますので、
第十五代菊池武光について、これから数回にわたって、菊池氏の「南朝一辺倒」最後の立役者とし
ての事績を見ていくことにします。
まずつぎの菊池武光の略系譜で菊池武光の事績の概略を把握してください。
15代
最盛期
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武 光
以上菊之城居城
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◆武時の子。元応元(1319)年出生か。(母は赤星有隆の女と恵良氏の女の二 説あり)豊田十郎(益城郡豊田荘地頭補任)、肥後・肥前守。 ◆正平三(1348)年二月頃、懐良親王の菊池到着。 ◆同年熊耳山正観寺(博多臨済宗聖福寺大方元恢の開祖)建立。松囃子能の 開始。菊池五山。 ◆正平十四(1359)年「筑後川の戦い」に勝利。(「大保原合戦」と同一説あり) ◆同十七(1362)年「大保原合戦」で少弐氏に勝利(十六年説あり)。十六年八 月十六日に大宰府入り説あり。 ◆同十八年征西将軍府(大宰府)開設、九州統一。 ◆同二十一(1366)年、大智和尚死去。良成親王、九州到着。同二十二(1367) 年、五条頼元病死。大内弘世に勝利。 ◆同二十四(1369)年、明使者博多に到り、前期倭寇の禁止を求む。・建徳元 (1370)年明使者趙秩を押し止め、懐良親王に謁させて還す。(足利義満の菊 池氏征討の契機となる)。 ◆文中元・応安五(1372)年八月、大宰府陥落。武光ら高良山に後退、文中二 (1373)年十一月死去(享年不詳、52~53歳か)
【墓所】菊池市隈府正観寺境内、
江戸中期、宗伝次・渋江松石の「正観公神道碑」(湊川神社の「嗚呼忠臣楠氏 之墓」と同寸法)建立 |
この中から
①「征西将軍宮」懐良親王の下向
②「筑後川の戦い」と頼山陽の漢詩
③「征西将軍府」の大宰府開設と対外問題
④「征西将軍府」の大宰府陥落と足利義満の菊池攻め
⑤菊池武光の正平四(1349)年の熊耳山正観寺建立の背景
⑥「松囃子能」と「通物」の始まり
⑦菊池五山制など
従来とは違った歴史視点から見ていくことにしたいと思っています。
①「征西将軍宮」懐良親王の下向
②「筑後川の戦い」と頼山陽の漢詩
③「征西将軍府」の大宰府開設と対外問題
④「征西将軍府」の大宰府陥落と足利義満の菊池攻め
⑤菊池武光の正平四(1349)年の熊耳山正観寺建立の背景
⑥「松囃子能」と「通物」の始まり
⑦菊池五山制など
従来とは違った歴史視点から見ていくことにしたいと思っています。
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興味のある方は、下記までご連絡ください。
〒861-1323
熊本県菊池市西寺1700-7
電話/FAX 0968-25-3120
熊本郷土史譚研究所 代表 堤 克彦